『心と身体といのちのこと』メモ

心と身体といのちのこと

 

 

 

・心から立て直す、身体から立て直す、メルロ=ポンティの心身一元論も絡めてみるのはどうか?

 


自然治癒力は「良い方向に行く」、けれどそのプラスの勢いがマイナスの勢いより上回らないなら「間に合わせる/折り合いをつける」という形で表現される。それは仕方なく止まっているという感じだ。

 


・心の領域の話題を、身体の領域にして返す

身体の領域の話題を、心の領域にして返す

 

 

 

自身の退行、幼少期

・絵を描く

・小さい子の保護

・電車ごっこ

・レゴ遊び

・公園で運動

・折り紙

・砂場遊び

・格闘

・料理の本を読む 

 


・自閉の利用は、エヴァを思い出すい

 


愛着障害は、愛着の場が含まれるような状況を避ける。含まれないと確信が持てるなら自閉はしない。

社会的に成功しても自分の中に空虚さを抱えている。そしてその空虚を表に出すと傷つきが出るから、そっと仕舞い込む。愛着が絡まない場所以外で活発に活動するケースもある。

 


・「一度目のことを、一度目のこととして癒す方法はありますか?」───

神田橋先生はないと答える、わたしはその方法を知っている。なので自ら試してみて実証しようと思う。(わくわく)

 


・学習は情緒的な負荷がなければ、学習として意味はない。情緒を伴わない経験は身に付かない。

 

 

 

・胎児期の愛着障害は、記憶がないので振り返れないのと、「気分」がフラッシュバックされる。気分だけが蘇る。生後以降の愛着障害を,引き起こす出来事は、認識によって克服されてゆく

 


発達障害愛着障害はその人の歴史に原因を見出したラベルで、適応障害は「今」に原因があって適応できなくて調和させることに失敗した状態。

発達障害をもってる故に、愛着障害を持ってる故に適応障害となることはある。両方持ってるなら適応障害になりやすい。

 


・外側からの刺激に引っ張り出されて能力は高まる。それにはある程度時間がかかる

 


・小さく自由に動ける雰囲気を作ってあげる、場の調子を相手に合わせてあげることが抱えになる。抱えは、受容・受け入れるではなく「馴染みやすい」の方が適してるかもしれない。相手の対応の習慣パターンを使えるようなら雰囲気を作る。

その場が本人にとって慣れ親しんだものであるほど、その中でその人らしさが出てくる。

この時本人の中に変革していこうという気持ちがあるなら、自然と変革してゆく。

 


・従来の面接本は、相手が治療関係の場に馴染む人だけを想定して書いている。つまり治療という目的があって、それを求めるからこそ、こちらも自己紹介して「今日はどうされました?」と聞く流れになる

 


・気分と感情は異なる。気分は雰囲気、基底的なもの。

 


・分担執筆ではなく、「著者一人」の体系をまずは読み、そのまま丸ごともらいそれをスタンダードにする。 

 


・「感じ」「雰囲気」を蓄積することが判断につながる

 


・「出た結果によって、自分の判断は修正されてゆく」という前提を持った、基準をもつ

 


・患者と家族に仲良くケンカしな→「どこで折り合いがつかないか」を明確にする→ラベルを貼り曖昧化する

「ここは施術せずに様子を見ましょう」「時間が経てば変わりますよ」

 

 

 

・診察が終わって帰るために立ち上がって方向転換をする。このときすーっと翻るようになれば対話が上手くいった、という指標になる。身体がモビールの要素を取り戻してた。次の診察でも入ってくる時にそれが維持されてれば治療は上手くいってるぞとかんじる。

患者の身体の動作に参与していない部分、主に骨の部分にぱっと気がつく。

 


・音声言語による作用が、自然にひとりでに精神療法の作用を持つ

 


・識字学習のない文字言語を使わない方達の、雰囲気はじつに良い。しゃべってる言葉と身体の調和がいいから。同様に文字言語を使用してても、文字言語の奴隷になってない人も雰囲気はよい。

 


・文字言語に重きを置いてる人は大丈夫。ではなくて周りから重みを(置かれてしまってる」場合、文字言語を無批判に受け入れて支配されてしまうと身体のモビール性、自然治癒力が邪魔されてしまう。(全体性の意だと思われるが…?)

 


・「そうかなあ」と柔らかく言える関係はいい

・「そうかなあ」は健康度の高い言葉、「同意できません」はその逆

 


・「あなたの努力が足りないのではなくて、こうだからだよ」「あなたがおかしいのではなくて、一般的なものだよ」という平均化的な言い方は、ひとを安らがせるの面白い。

 


・神田橋さんは言語領域から心を紐解こうとしてるから、(心は音声言語と文字言語の二つをごっちゃにして作った概念」というのだと思う。けれど私はそうかなあ?と思う

心とはトリグナの表現であり、その時々のカルマとサンスカーラによって「欲望」を生起させる。欲望が生じれば、意味と価値が生まれ、本人が観たい世界が展開し始める。逆に欲望が生じなければ、(分節された価値の強弱が伴う)世界は展開しない。欲望とは不満足といっていい。不満足が我々に「企て」をするよう促すのである。全てに満足していたならば企てようとは思わない

 


・(哲学は脱学習)

 

 

 

・動きに参加していない部分を、時が止まってる部分を、参加させる。

逆に時が止まってる所を支えるために、他の部分が無理をするので早く老いる、そうし全体の足並みがまちまちになってくると病が発現する。

 


・「機能を発揮する場が与えられない・恵まれない」

 

 

 

・苦痛感は、自然治癒力の最低限の表現の形。苦痛の声を制圧するのではなく、苦痛の声は何を要求しているんだろう?というふうに読もうとする。

生命全体がそろそろ動きたいけどやり方が分からない時、苦痛として現れる。

 


・その生体の声を聞くことをしてみる

 


・苦痛とか不快感ってのは、治療的なサービスを要求している生体の声である。

 


・生体の自然治癒とは、「生体の維持機能」と「その生体の維持機能の許容範囲内での自己の揺さぶり」としてみてみる(保守と革新性)。

時代が変わると適応するために、革新部分が動いて自己を揺さぶり(学習の意欲)全体が変化してゆく、

 

 

 

・生体の維持を上回るほどの革新性は、生体の自助活動を破綻させ適応障害となってしまう。

 


・抱えのイメージは、のどかな田舎の自然、あるいは「同行者」「寄り添うもの」

・苦労や失敗が多いひとはその分引っ張ってこれるものが豊富なので、タフ

 


・「ここに2つの力がせめぎ合ってるねえ」というのは、理想的な揺さぶり。すると、苦しんでるひとを悩んでる人に変えることができる安全なやり方。

 


・今抱えている問題については「変わりやすそうなところから変えてゆく」「変わりやすそうな所を目標にして変えてゆく」

脳が変りやすそうと判断すれば、その援助としてサプリメントを与えたりする

 


・言葉を通して、方法を教えることで「明るい未来像」を植え付けている

・その人に使えそうなことを、簡単なことを教えてみる

・それをイヤだと言ってるあなたは正しいよと、ポジティブな評価をする。

 


・身体とこころを分けて話してみる。「あなたは頑張る素質があるのだけど、体の方がもう参ってしまってるねえ」

 


・あなた自身の中で方針が立ちつつあるでしょうと誘ってみる。選べせてみる。 

「何もできない」と言ってる人に「選ぶことくらいならできるんじゃない?」と選ばせてみる。これはどう?うん、イヤという選択は一番最初の原始的な自己決定権の行使。

そして本人が決めてきたら「ああ、それはいいね賛成」と、決めたことに賛成する

 


・今までしようかしまいか同じ所で止まっていたのが、「あ、しよう」「自分で決めよう」と動くことは自己の揺さぶり。現状を変更しようとする動きにエネルギーを与えているから。

 


・後押しではなくその選択を承認する。自分の選択に賛同者がいること。あなたはひとりで決めているけど、それに賛成する伴走者がここにいるよと示すことは抱えになる。

 


・選択肢Aもピーもなくて止まってる人に「確かにAもBもどちらか選ぶのは難しいよね」というのは抱え、逆にに「AとBを選ぶの難しいけどあなたが決めていいんだよ」は揺さぶり。

 


・抱えることで本人の中で自然な揺さぶりが発生して、そのうち、どちらかに動き出す。

 


・抱えによって自然な揺さぶりが開発される。

開発されない時は「そこで勇気を出してどちらかを選んではダメだよ」と言う。「それぞれに一理あるんだから、『動かずに考える』とはこうゆう時の ことを言うんだよ」と言う。

これは抱えありながら別方向の揺さぶり、「観察する精神を、平衡状態の中から救い出し、平衡状態を眺められる人にする」行為である。本人と一体化していた悩みを外在化し、他者とする。

 


・伸びる素質がどうか把握して、伸びるなと思えばもっと鍛えてもいいし、伸びないなと思ったら「まあこれでよかろう」と様子を見る感じ

 

 

 

①「動きたい」「留めている」2つのせめぎ合いを明らかにする(あるいは両立不可能な複数の願い)

②本人に「わたしはどちらがしたいのかな?」と揺さぶりが起こることに期待する

 


・神田橋先生の仕方は

「『留められる側の自分』(生命体/自然治癒力)はあなたの素質が認めた部分で、『留める側の自分』(不適応な学習)はあなたの素質が認めていないようなもので、自分を大事にするということは、『留められる側』が大事にされることなんじゃないの?」とうメッセージを送り込む

 


→「幼稚園時代にでてるものは今よあなたの中に残っているから、それを思い出して使うと可能性が広がるよ」という提案がそれをなす。

 


「留められる側」の力を増やすことで、それが「留める側」を揺さぶるようにする。それは留める側自身が揺さぶるわけではない。 

 


・「思い出して制御する」ことが自動化してるので、「ああ、自動化している」その自動化に気づかせて、自動化する前の状態に戻そうとする。

 


・何か物事を「留めている自分」に気づかせる・「動きたい自分」を応援する

 


・「相手の視点に合わせる」と抱えになる

 


・大事なのは「抱えられる」「揺さぶられる」ことです。

抱える・揺さぶり(成長と対処行動)は既に本人の中にあるから、後はその抱えに同調してもらい、その揺さぶりに同調してもらうことが、よいこととなる。

 

 

 

・「相手の誤りや悪を打破することによって、正しい教えに従わせること」は、本人の内側はますます動かないものとなり、かえって悪くなる

 


・視点をぴたり合わせてもらって、自分の感じにぴたりと合った応答を返してもらえたら、その後に気の利いた言葉なんか要らなくなり、自分が感じた重さで「そうね」と言ってもらえて「ああ、この人は本当に私を分かってくれた」と感じたなら、それでもう十分抱えられている。

そしてさらに「留める自分」と「動きたい自分」の葛藤関係に共感してもらえたなら、『本人の中で抱えと揺さぶりが起こり始める』。

 


・「もう長年そうやって来ていると窮屈とは感じないかもしれませんが」と言うことで、そこではじめて本人の中で「縛っているもの」と「縛られているもの」という葛藤関係を描くようになる。葛藤関係が生じるよう言葉を投げかけるんです。

 


「身動きが自由でないみたいね、何故だか知らないけど」という雰囲気で、葛藤関係を生じさせる言葉を投げる。本人の内側に自由には動けない元々の事情を思索させるかんじ。本人が「気が付かないこと」を揺さぶっている。

 


そうして本人が不自由さを何とかしたいなら、その試行錯誤を報告してもらって、また一緒に考えて「何でだろうね、いつ頃からそうなったの?」とやり取りする。

 


・「今日の見立てではどうもココに問題があるように見えるけども、そうゆう見方についてどう思いますか?何か思い当たることはありますか?」と訊く。そうして「だから今日はここだけ施術して、それで肩の痛みがどうなるか観てみましょうよ」と言う

 


すると本人は施術される人ではなくなり「二人でする治療活動」に参加することになる。「これは見立てであって仮説ですから」「こういうふうな見立てでやりますから評価の用意をしておいてくださいね」という雰囲気で言って、それで施術して「どうですか?」と訊く。

上手くいかないと文句言われて「あぁそうね」となる。

全部相談の形に持っていくとね、「相談ずくで施術してくれる先生」と「底知れぬ技術力を持つ先生」という認識を育んでゆくのです。

相談し合って分け合えば気が楽になるよ。細やかに細やかに心を配ることによって、気が楽になる

 

 

 

・自分が良くなっていることに気づかない患者さんには、「以前は…けれど近頃は…」や「まだ、本当のところは良くなってないんでしょうね。どうしてかというと、治療の効果が現れるのは枝葉の所からですから。私たちは枝葉が良い方に向いたら、この治療はいい方向に向いていると思いながら、やっていくのですよ」と言う

 


・「私の見立てが合ってるなら、施術している間に、施術しているだけでも、何らかの変化が症状の部分に起こるはずだから、帰られた後も少しずつ変化してゆきます。根本の部分の改善が進行しているかどうかが、症状の変化によって測定できます」と説明するとグッド! 

 


・「抱えられ」「揺さぶられ」の表現の方が誤解なく伝わる

 


「抱えられ」「揺さぶられ」が相手に起こってるかな?と思い続けることが技法上大切

 


・〈いのち〉に直接語りかける言葉、そらは心と身体どちらにも用いられる。

 


・いのちが妨げられてる(=生きづらい)構造のうち、「対処するために選ばれた方策」が適当でなかった為に困難は、更なる適応の方策を生み、それがドミノ倒し的に構築され適応の障害として表している。

その方策の登場した経緯を推理し、仮説として提示することで、「歴史理解の共有と未来へ向けた方策(治療仮説)」を作成する。

 


・治療仮説

「個体はこれまでの人生で”与えられたもの”としての困難を抱えて何とか適応を工夫し、模索してきた。その当時いくらか役立った工夫は、維持され繰り返され根を下ろした。しかし”与えられたもの”も、環境も、時間によって変化するので、同じ方法では事態との齟齬が徐々に大きくなり、適応不全が生じ症状へと繋がってゆく(下手さの拡大)。

いのちと環境の関係で採用され維持されてきた適応の工夫は、その当時の個体が取りうる最善の方策だったと仮定する。例え下手であったとしても。(いのちの知恵への畏敬)

 


・この治療仮説を二人で共有するのが望ましいが、ひとりで有しているだけでも有意義である。この治療仮説を基盤にして治療行為を進めてゆく。共同作業の雰囲気で

 


・本人の〈自覚できてる困り感〉を抽出できたら、こちらの〈援助の意図〉と手を結ぶことが簡単になる。

 


・見立てを確かめてゆくための問いかけは〈いま現在・この場〉から問いを進めるが、〈困り感〉が確認できるならその周辺の明確化から始める。

そして大切なのは「〈困り感〉それ自体を援助の標的にする」ことであり、困っている〈あなた〉は健康ですよという仮説の雰囲気で接することである。これは「とりあえずの健康部分の救出」を目的としている。

 


あとは本人の内にある〈自己的揺さぶり・革新性の志向〉が立ち上がり、それが好ましいドミノ倒しの展開を期待しながら待つ。見守る。

 


抱え一途で流れについて行くと「コツン」という躓き感じが現れる。おや?と思う。そのままで流れについて行くとまた「コツン」と躓く。これはドミノ倒しが止まった時の感触である。これが繰り返されるうちに同じ流れが同じ所で躓いてるらしいと推察でき、これは〈アタマ脳〉で感知しているのだ。

この時はまだ〈揺さぶり〉の時期ではない。

 


逆に「コツン」が治療者の身体全体で響き渡ったとき、〈揺さぶり〉の時期である。

この停滞部分的は、特に有用で、強力で、何度も使用されてきた対処努力のセット(固着)であるから、その「有用性」を明らかにするように推測を投げかける。(有用性を話題にすることはその対処努力を他者化する)

 


有用性の作用とその来歴を、プラスの評価を添えて話題にすることは、「対処努力の中からとりあえずの健康部分を救出する」作業である。

マイナス評価を添えると貶めの雰囲気が添えられてしまい、健康部分の救出が難しくなる。

 


他者化された対処努力はまず観察の対象となり、対話の話題となりやすく、その場から〈自発的な揺さぶり〉が起こり始める。

 


治療の基本方針は”与えられたもの”は、全て、すべて活用する。なぜなら”与えられたもの”は阻害状況から解放されると、自然な成長の結果として力強くなるからである。しかしその歩みは植物の成長よりも遅く、ゆっくりなので、希望をかける程度の扱いが好ましい。