感情レベルと行動レベル(タコピーの原罪)

 

 

 
 
行動がうまくいかなかった時、 対処として「誤解を解こうとする」方々がいる なぜそんなことをするのだろう?と不思議であったが

①「自分はいつも誤解されている」という世界観を持っている

②「自らの言動がどう周囲に影響するか理解できない」ため、感情と現実のズレを何度も味わってきた

 

この2点を有しているとするならば、 「自分は誤解されるため、誤解を解かなければいけない」と当人が考えるのも納得する。

 

 


「悪気はなかった!悪意はなかった!なのにどうして許してくれないんだ!」 という表明は、あなたの動機がどうであれ ”その行為は悪である” ことと全く別物である──というほかない。 動機がよくても、行為がわるいという区分がないから「悪意がなければ許してもらえる」という発想になってしまう
 

 

悪意がなければ人を殴ってもよいのか? 善意であれば誹謗中傷してよいのか? これで「ああ、それは違う」と納得するなら、「動機の善し悪しと、行為の善し悪しは別物」と腑に落ちるのではないか

 

 

 

”地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている” (Hell is full of good meanings, but heaven is full of good works)
 

ここにわたしが修正を加えるならば 「善意と善行を一致させることが、善である」 そして何度失敗しても(当然私たちは未熟なので何度も失敗する)、善意と善行を一致させようと努める行為はすばらしいものである。 (そう、今のわたしは思える)