自己肯定ではなく、世界肯定感

 

 

 

自己肯定感の高さ低さ ではなく、「世界の肯定感」がわたしには必要だったんだな。 世界は肯定しえるか?  (自分ではなく)世界を肯定できるか?
 

 
善と美が分断され、真ではないものを真だとするこの世界を受け入れられますか? (嫌悪と貪りが当然だと受け入れられている価値観、そして論理相対主義者の台頭)

 

初雪がいないこんな世界に意味なんてない!!!! と慟哭した桜の気持ちは、嘆きは、自己を肯定できるかではなく世界を肯定できるかにかかっている。そして彼女は選択する。 ああ、こんな世界いらないや、と。
 
自己の肯定感と、世界の肯定感は別物だ、という気づき。なるほどな

 

 

世界とは総体であり、自己はその総体にもれなく入れ込まれいる。 永遠の相のもとに物事を直観すれば、こんな肯定感の高低など気にするはずもない。(スピノザウィトゲンシュタインのように) しかし通常は、世界と自分は分たれているから、受け入れられるか否かの問いが発生してしまう