『神田橋條治 医学部講義』を読んだメモ一覧

 

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・病とは流れである。ずっと流れている。そしてある時点で患者としてやってくる。これまでの流れを「どういう流れなのかなあ?」「病気全体がどういう流れななかな?」と思って流れを見る習慣をつけると、流れへの感覚が養われてくる。

 


・精神科では自然史を使う(他の科のように生理学的知識に乏しい)

 


・「これをしたらこう変わってゆく」と考えること。

「この人はほっとけば治るだろうか?これからこうなり、こうなってゆく道筋の途中にいるようだ」というふうに考えれば、またちょっと感受性が高まってゆく。さらに「こういう治療操作を行えば、こういうふうになりそうな感じの人だなあ」と考える

 


・今から目の前のひとの未来が、少しでも良くなるよう関わる。そのために診断がある。道筋を決めるために診断する。それは分類するためじゃない

 


・覚悟を持って「厄介さ」に付き合うと案外すっきりする

 


・今に未来へと広がる芽がある。それを感じることで全てが出揃わなくとも判断できる

 


・二者間系の病理、薄い関係の時は大してその不安定性が目立たない。

付き合いが濃くなるにつれて不安定性がどんどん大きくなってくる。2者関係が濃くなってきて、関係の中にその人の全体が投入されたため ボロが出てくるような感じで、その人の本性が現れてくるような形で不安定性が強くなってくる。

どういう形で強くなるかというと

1つは激しく求める。関係が近づいてくるともっともっと求める。一週間に一回が、毎日となり、ずっと一緒にいたい、ずっと見ていて欲しいとなる。

 


もう一つは疑うのね。安心できない。一週間に一回会ってたのがずっと一緒にいるようになったら安心が7倍!というふうにはならない。むしろいつも一緒にいるから自分に注意を向けてくれないのがより分かってくる。心配の種がより一緒にいることで増えてくる。

これへの因果仮説は、親子関係の予測のつかなさ、安心のなさ由来を精神科はよく考えるとのこと。

 


・予測がつく、対象恒常性、安心、信頼──により、単に勤務時間がしっかりしてるだけでも患者の状態がよくなっていく。逆に不安であれば良くなりにくい。

 


・けれど本物の境界例の場合、もっと信頼させようとこちらが頑張りすぎるとかえって疑心暗鬼になり泥沼となる。どうすればいいか?→治療関係を一定以上濃くしないようにする。濃くすると依存と不信の悪循環がわーっと出てきます

 


・もうひとつは疑う気持ちを移す、疑う気持ちを外在化し、客観的に眺められるようにする。「疑いの中に留まっていた、疑う気持ちでいっぱいだった私」から「それを客観視する私」を少し抽出して、ここに「理性的な部分」を作ってゆく。この作業が二者関係の治療の眼目です。

そしてこの「理性的な部分」を治療者が手を繋ぐ、繋ぎ方は情緒的だと元の疑いに戻ってしまうので冷静に冷たくつないでいく。(おそらく理性的合理的論理的振る舞い)、そういう関係に留まりながら、「疑う」気持ちを一緒に見ていく

 


(これメンタライぜーションじゃない?)

 

 

 

→あるいはネットのチャットの距離感は遠い。どんなに信頼してるといっても不満感はあれど混乱はしない(しかし現代ではもう当てはまらないかもしれない

 


・一生懸命尽くしてあげるとますます疑うようになる恋人は、対象恒常性が低いひと

 


・症状をみたら、それを全面的に抑え込もうとしたり、全面的に無くすことを目指す治療ではなく、「そこで闘っている生命体の努力を察する医療」をしてください。

 

 

 

 

 

 

 


自然治癒力を主役に

 


プラセボ効果は、自然治癒力の純粋な現れである。心身相関の確証でもある。このプラセボ効果を援助し妨げないことが、治療の効果を高める。(これは治療者との絆によって発動されるため、治療者は「絆の現実を提供する」ことが重要である)──これがあらゆる精神療法の基盤です。

 


絆の現実を提供するとは、患者の疑う気持ちが縮小していくような現実を提供することと言えます。

 

 

 

・「絆の現実」は雰囲気とデータから成り立つ

治療者の発する絆の雰囲気(=接する態度・音調で構成される)が最重要である。協力して、患者の苦しい訴えを解決する共同作業の姿勢が、より一層絆の雰囲気を生み出す。

データ(言葉・数字)は、絆の雰囲気に乗せて伝えられた時のみ、治療の効果を高める機能を持つ。(絆の雰囲気に乗せて伝えられない場合、治療の効果は高まらない)

 


・絆の希求に応えるのが、絆への姿勢である。(絆とは「信じること」)

それには次の二点が有用。

①連続のイメージ

人間関係はすべて会って別れる形をとる。そして別れている期間に連続のイメージが維持されているのが、絆の事実である。よって次の工夫が役立つ

1.「出会いの瞬間」と「別れの瞬間」に、一瞬、目と目をあわせる

2.前回の出会いの日時を確認して(カルテを見る)、その時から今までどうしていたかを問う

3.次回の予約を確認し、緊急時の連絡方法を教える

 


②相互コミニュケーションの志向をする

どの瞬間も相互交流を意識する。

例えば、絆の雰囲気を送りながら採血し、よく聞くことなど。

相手が交流を遠慮する場合もあるので、ときどき「なにか質問ありません?」と問えば、治療者が共同作業のための交流を志向していることを伝えられる

 

 

 

否定表現を2つ続けた言い方は、「服薬し”ない”と、よくなら”ない”よ」等は、本質的に脅迫文である。「何々をしなければ何かするぞ!」というかたち

また「どうしてAをしなかったの」は本質的に叱責の形である。

 


精神療法のルーツは、「患者の内にあって、プラセボ効果を妨げている誤った学習の、除去技術の姿勢」である。

(一体なにがこの人の自然治癒を妨げているのかな?)という視点と考えていいか?

 


・あらゆる治療は、自然治癒力をに依存して行う意識をもつ。

・「絶望」は自然治癒力を停止させる。

 


・臨床家というのは、その個体にとってどこが正常値なんだろう?と思考する。「鵜(う)の真似する鳥、水に溺るる」

例:「血圧はどのくらいが一番いいんですか?」「朝目が覚めて、頭の気分がいい時に血圧を測ってください。それがその人の一番いい血圧です」

 


自然治癒力を土台にした治療では、何か治療操作したあと、状態が良くなっていれば、それは患者の「「自然治癒力を保護している環境としての治療」がまあまあいいとこ行ってるようだから、このままでいいんじゃないの」と考えるため、「このままで様子を見ましょう」という言葉がでてくる。

逆にこの時、もっと薬(治療操作)を投入すればもっと良くなるかもしれないと思い投入してしまうと患者のためにならない。

「このままで様子を見ましょう」と言ったあと、また検査して、検査結果が良くなければ、そこで方針を考える。良くなっていればそのままで通すのです。

「積極すぎない治療」を目指す。

 


・信じるに足る関係の実体は、雰囲気とデータです。

正確なデータだからといっても、やはりちゃんと保護して、その人と絆を作って「こういう危険があるけれどもやりましょう」という、危険を共有する関係の提供がなくて「はい、これこれだけですよ。いいですか?嫌ならしませんよ」となったら全然絆にならない。

 

 

 

・絆とは、個体が生む内的イメージ

 


・将来治療が終われば、本人の心と、本人が有する自然治癒力との共同作業だけが残る。そして新たに養生がはじまる。そんな未来に向かって、治療者の活動と、患者自身の心の共同作業がある。

 


・「私の言うことを聞きなさい。私に任せれば治るから」と言うのは、(患者側には任せたい気持ちがあるから)そう言われるとすごい誘惑になって従順になるけど、上手くいかなかった時は「甘い言葉に騙された!」といって紛争になります。そこが難しいね

 


・だから自然に発生してくる依存的な傾向は受けいれてあげるといいけど、それをさらに掻き立てて膨らませるようにしてらはいけません、でないと訴えられます。

 


・患者が一生懸命何かやってるということは、自分なりに自然治癒力を強化・共同作業をしようとしてる自助活動や工夫です。それを「だめだめ、そんなの迷信だ」と言うのではなく、「まあやってごらん」といい治療意欲を鼓舞します。

鼓舞することが、自然治癒力、患者の養生心と治療者が協力しているというプラセボ反応の賦活された状況になる、

 

 

 

・自助能力を助ける援助をする。「自動車を貰うよりも、我々が自動車を作れるようにして欲しい」

 


・精神療法とは、「自助の能力を本人の中に育てる」こと。

自然治癒力と馴染む学習をする。相性のいい考え、行動、生活パターンにより、自然治癒力を保護する。それら「気分がいい」ことがサインとなる。そうしてると快食・快眠となり、「自分らしい」という感覚が出てきます。生活に余裕が生まれてくる。

 


(週に一日登山することが本人にとってリフレッシュになるならそれは精神療法となる)

 


・心は、文化に適応するように考え方やパターンを学習するが、それが自然治癒力に無理をきたしてゆく。

 


・その個体にとって誤ったパターンを取り除く。脱学習。視点の変更、価値観の更新

 

 

 

・「頑張る」というのは、「目的のために辛いだろうけども一生懸命やって、少しぐらいの無理をしなさいね」という意味。病にかかってる人に頑張れというと、死にかかっている状況でそれでもムリをしなさいと言っているようになるので、禁止。

 

 

 

鬱病とは、脳という臓器機能を極限まで使い続けないとならない

 


・社会/集団/文化の価値観からの離脱が、精神療法の主たる仕事。心を不自由にしている考えの脱学習、脱洗脳、脱構築。世界観ともいえる。

 


・「脳(身体)の自然治癒力を十全に発揮されるような、心のあり様を作る」のが精神療法。

 


・できたら言葉を使わないで、自由度が上がるような、心のふわふわ性が進んでいくような精神療法が一番いいです。

とはいえ精神療法は言葉を使う領域が広いので、規格化されてない、詩人のような自由な使い方をするとよい。川柳と精神療法となる。

(要するに世界のおわりとハードボイルド的なもので、エンタメではなく詩文性が高い小説を読み続けるのも効果があるのはそういうことだろう)

 


・人との関わりの中では、言葉がないほうが、関係の治癒力が濃い

 


・精神療法は、心のふわふわ性を不自由にしてきた学習パターンからの解放を目的にして作られたものが殆どです。しかしふわふわ性とは不安定でもあるので、精神療法は心を不安定にさせる力を持ってます。

統合失調症のばあいは、脳がふわふわしてるので精神療法するとちと危険。ふわふわしない方が良い人が動きやすくなってしまう)

 


自由連想法は、自由に連想させることでかえって本人の囚われてるもの、不自由な部分を見つけるのか目的。不自由になってる考え/部分を見つけたら、治療者は解きほぐそうとせず、「不自由になってるね」と注目するだけでいい。すると本来自由でありたい心は、それをなんとかしよう、離脱しようという動きが自発的に動きます。ここらにとって不自由なことは不愉快なので、そこに注目して気付かせればいいのです。

安全なのは、この不自由な考えに対し、葛藤する考えが湧いてくるのがよい。そして葛藤すると考えが湧いてきたら、心のふわふわ性が自分の力で治療を始めていきます。

治療し始めてきているこれを消そうとはしないでください、「葛藤の解消」「葛藤の解決」ではなく、両立不能な二つの考えを抱えていられる葛藤の状態を目指します。葛藤してること自体が、心のふわふわ性のありようであります。

 


・脳が自在に活動してる指標として、「好奇心」は信頼できます。勉強ができるようになったり、何かが出来るようになっても脳に余裕がないと好奇心は生まれないからです

 


・精神が健全な状態とは、小さな頃からずーっと蓄積されてる記憶を「いつでも」扱えること。inputされてる情報が、自在にoutputできることが健康なのです。

 


・脳のキャパシティが分かるフィーリングとして「苦しい」「楽」という言葉が良い指標となります。

 


・好奇心が行き過ぎた躁病の患者に、鎮静すると薬を与えたあと「だいぶ落ち着いたね」と言ってもピンとこないが、「だいぶ楽になったね」というとしっくりくる。

 


・患者をじーっと睨むと、何か苦しい感じ、邪気がわかるので、そこの部位を例えば膵臓を検査してくださいと言えるようになる。(漢方、気功)

 


・感覚を研ぎ澄まして、研鑽してゆくことの大切さ

 


・患者の身になる、もう少し分かるといいなぁ、慈悲心──これらは医療の客体化、普遍性の獲得、主体性の排除によって遠ざけられてしまう

 


・その人の生体(あらゆる資質)と、その人を取り巻く文化が調和すると健康。

 


・精神療法の基本は、ノンバーバルを伴った癒しの構造なの。

 

 

 

・治療者が自分の好みに合うよう精神療法を創造する。その創造したものは本人にとって極めて健康的だけど、他の人には分からない。なので精神療法の本は「この方法はこんなタイプの人に合うんじゃないだろうか?」と考えながら読むといいです。

 


・「もしもウサギにコーチがいたら」大和書房

 


・その個体ができること、常々やってることの延長線上に一番しやすいことがある。

 


・今いいと言われてるものでも、長い時間かからないとそれが本当にいいか分からない。

 


・強力な精神療法には、強力な副作用が生じる。例えば行動療法など。

 


プラセボエフェクトはまず心に働きかける。

ゆだねる、湧いてくる信頼、安心が大事。「この先生に任せてみようかな」と思わせる一つの方法として情報開示がある。それは「共に」と言う感覚であり、一緒にということ。作業の中に一緒にいるということ、安心の雰囲気。血圧を一緒に確認。

 


・いつもできるだけ、今この瞬間を、その場で治療者と患者が共に観察する。「共にある」という感覚。診断でも治療でも行う。

治療のイメージはこんな感じ。

「この薬はここからここまでの間で、増減を自分でやってみてください。その結果をまた知らせてください」

「この薬にはこういう副作用があると言われているんだけど、あるかどうか見ていてください」

──私が出した薬をちゃんと飲んで、その結果を私が判定するから。と言わないで、(危険のない範囲で)薬を少し増減することと、治療の効果判定を患者に委託すれば、患者は治療行為も共にやってることになります。

 


他には「この本を見て自分で副作用について勉強してみてください」(患者が薬に興味あることを前提)

 


・子どもと接するときは、同じ位置に目を持ってくる。

これを進めると同期になる。

 


・「身体さん、あなたの声を聞かせてね」といつも自分自身と相手に言うようにしてください。身体の声を聞く。身体という完成されたシステムを尊重してやっていく。

 


・生命体に直接介入しないで、最も好ましい環境調整をすることが、精神療法の原点。そして環境と生命体の間に、学習されたパターン(行動)がある。学習とは繰り返し繰り返し使うことであり、二度と使わないなら学習とは呼ばない。

 


・私たちは、何かを覚えては、その一部分を破壊し修正していく。

 


「そういうふうに考えるのは正常な考えで、全く間違えていない」(平均化)

「〜それが効いて来れば、まだ先があるから、Aをせず、それまで待たんかね」

「あなたがいじめられて悔しくて死んでも恨みを晴らしたいという想いは、気持ちは、全然病気じゃないのよ。そうじゃなくてフラッシュバックが病気だから、これを治そうね」と言う。

看護学校に行けるようになったら「あなたはいじめられた辛さが分かっているから、病気の人の辛さもよく分かっているだろう。いい看護師さんになりなさいね

 


・「よくできました」という、様々なことを本人の一つの業績として価値を与えて認めること。

「あなたは自分で自分の病気の本態を掴まえることができたねえ」といった。そして「自分はこれからどうしたらいいのかという目標もできたね」と。

 

 

 

・知識を与えること、本人が知らない情報を得られることは「技術のいらない精神療法」

 


・病人が病についての知識を得る事で、それまで一体であった病人と病が、切り離されて、治療者と一緒にその病を眺められることがインフォームドコンセントの目的です。

 


・情報を共有した二人が、病(対象)について意見を出し合えることは重要。

 


・よく説明をすることは精神療法。(三本の採血管)

 


・(自身の信念体系すらも他者のもののように眺められることは、賢さの一つといっていいと思う)

 


・相手にネットで調べてもらって教えてもらう雰囲気を作る

 


・こっちが教えてやって対等になるというのは、どこか対等ではない。しかしこっちが教えてやって、相手からも教えてもらうならば対等となる

 


・何でも、本人が達成することがよい。発見の喜び、達成感を覚えること、それはあまり的中させすぎえもよくないのかもしれない。 

 


・こちらが環境を変え調整しても、向こうからしたらしてもらっただけです。しかししてもらうだけだから、本人はやったー!とは喜ばない。可能なら、本人自身が環境を変えたり選んだりできるようサポートする。

しかし問題がある。それは「能力がないとくだひれて参ってしまう」のと、「環境を変化できるのは稀なので折り合いをつける」こと。

なので、自分で環境に折り合いをつけるために、そのやり方を発見するのがいい。

折り合う方法をこっちが教えると教祖様的になってしまうので、「これはどう?」と示唆だけを与えるようにして、後は本人でやれればうんといいやり方だ。

ただ能力がない人に「こうじゃないの?」「あなたの人生とはね」と言っても参ってしまうだけなので、本人が「自分でできる方向と難易度」に合わせてやるのが、自尊心を強める精神療法です。

 


能力がないのに「君はオリンピックに出れば自信がつくだろう」と言っても参ってしまうでしょ。出来ないのにさせられたら、挫折体験だけ増えていきますから。

 


・だから本人の中なある「潜在力」を読めなきゃいけない。潜在力を読めてその範囲内で主体性/自尊心を高めなければいけなき。これが診断です。

 


・『良師は規矩を教える』

(物差しを教え、弟子は師匠とは異なる世界を築き、教わった物差しを捨て、自らの新しい方法論を打ちだす。)

 


・自分で発見できるようにしてあげること、自分で勝手に出来るようにしてあげることが『物差しを教える』こと。

 

 

 

・全ての病はそれぞれに特有の自然経過があって、その自然経過を把握して、それを少しでも応援するのが本当の治療です。

 


・自分で何とかして持ち上げようとする生体の営みに対して、少しでも良さそうなことをしてみよう、というのがメインとなる治療なんです。

 

 

 

・できるだけ、足したり引いたりすることは少なくする。その人が持っているもので、なんとか身を立つようにしてあげる。つまり本人のやり方を認めてあげる治療になる。「それはいいね。そっちに行けばいいよ」と言う雰囲気

 


・頑張ることは緊急の時は必要だけど、これは強烈に足したり引いたりする活動なので、頑張ることを目標にしたり日常化させてしまうのはまずい。過去形である「頑張ったね、もう休んでいいんだよ」の雰囲気はOK。

 

 

 

・もし「頑張れ」という言葉を使うなら、終了時点を設定しないといけない。エンドレスに頑張ったら燃え尽きてしまう。

 


・本人の動きに大きなマイナス点を付けないようにするのが、精神療法の極意

 


・「治療者」「患者」「問題」というイメージでもって接する。患者内の問題を外在化し、その問題を治療者と患者は二人で眺めて、これからこれをどうすればいいかな?と話し合い意見を出し合う雰囲気を作る。一緒にこの「問題」を解決する意識が必要です。患者の問題を解決するために、患者とチームを組むイメージです。「問題解決のために、一緒にチームを組んでいる」と言う気持ちが、お互いにあるように工夫する。

 


・話し手の中で格闘しているものや、鮮度がいいものは、聞き手の眠気が起こりにくい。退屈しないのだろう

 


・精神療法を実行する時は、必ず「生体をケアし、大事にして、その中で動き始めて来るものを見守り、いちいち手を出さずに、何か善いものが動いてきたら「あ、いいねいいね」とじっと見る」ようにします。見ている人たちが喜びを感じるムードが基底にあると治療になるんです。

(植物の芽を見守るように)

 


・人の命を育み、よりよい方向へと進もうとする意図意欲があるかないかを、見る

 


・ケアし見守られている雰囲気の中で、試行錯誤をしていると少し困ったことが出てきても、ケアされてる側は自分で工夫したりする。そしてやってるうちに偶然何かに気づいて出来るようになったりするんです。

それを見守っているこちら側は「わあ乗り越えた、できた」と感じて嬉しい。

 


しかしやっても出来ないとなると可哀想になるから「ちょっと手助けするかね」と思い、「こうしたらどう?」と助言して動かしてあげる。この時、ケアしてる側に介入的になる部分が出てきて、今までの守ってあげているだけではなく、「関わる」形が出てきます。

介入して相手が何か出来るようになったら、「やったあ」とこちらは思うけど、もし何の介入もせず(子犬や赤ちゃんが)なにかできるようになったらやったあとは思わなくて、ちょっとニコニコするでしょ。見ているだけでハッピーになる感覚があるよね。

つまり介入して助言して何か出来るようになると、「おうまくやったぞ」と介入者側の喜びになってしまうのね。

 


・介入者の喜びは、非精神療法的なものであり、やむを得ずやっているとか、見るに見かねてやっているものであるべきです。

・自分の介入を控えて、できることなら使わないで、使うとしても少ししか介入の技術を使わなんずに、自発的なものが出てくることに「期待」する。

・「介入をできるだけ控えて、そして生命体の持っている自然によくなっていく力に、いつも介入者のほうが一歩譲ると言うことが大事だ」

 


・一番のポイントを探して処方すれば、薬の種類は少なくなるし、生命全体の機能が良くなるし残った部分は自然と治る

 


・自分のやる能力が段々高まってくると、次の段階にいきます。それは「環境全般を利用しようとする動き・こちらに対する働きかけ」が出てきます。助けを求めたり、援助を引き出したり、何かを訴え、活用します。(騙すことや悪事も含まれる)

 


・上等な教育は、子どもの知的な好奇心に全面的に答えをだしてはいおしまいとするのではなく、さらに伸びていくようにすること。

精神療法でも答えや方法を与える時も、答えを出しすぎないで、示し過ぎないで、できるだけほんの少しだけ示すようにする。そしてあとは、この示す行為に対する患者側の自発的な活動に期待する

・こちらが介入して、悪い所を取り除くやり方はできるだけ少なくして、後は生命体のほうに預けていこうという謙虚で控えめな態度は、ケアの精神でもあります。

 


・達成された体験が積み重なってくると、次に同じように困った時は、もう助けを求めないで自分の中にある学習されな記憶を使って処理していくようになる。これを自助能力といってもいい。

 


・小さな一つ一つの達成を積み上げていくことは、相手のためになる。ただし求められたならば

・我々の関係の中で起こった達成の蓄積により、自助能力は育成される

 


・ほんのちょっと介入して→達成による自助能力を育て→「大分手間が掛からなくなった、この人はやれるようになった嬉しい」→また見守る喜びに戻る。いつもここに帰ってくる

 


・精神療法の本質は、何でもかんでも自分でやれるようにすること。(自助能力の育成)

・自助能力がないときは傍にいて助けてあげないといけない、けれど自助能力が身につけばもう我々は傍にいなくていい。いる必要はなくなる。これを目指す。その人が自分の力でやっていける事を楽しみにする

 

 

 

・本人に何かしらの自助能力があると判断したら、「三角形の関係」をしてみて下さい。自分、相手、問題、を眺めるようにして、そこに「参加」させるようにする。問題解決するためのチームを組み、あなたも私もそこに参加できるよ、参加してねという雰囲気を作り、自分でやる治療行為の中に参加させて、意見を聞いて、こちらも意見をいう共同作業。

 


・「同じものを一緒に見て、一つの問題を眺めて、お互いに意見を交換し合う」

 


・治療者もまた生身であるがゆえに

「慈悲の気持ちを保ちながら、相手の内部で何か育ってゆくのを楽しみにしながら、邪魔してるものには控えめに介入する」という理想的なあり方は、やってみようとすると全然出来ない。難しいのです

この問題についての助言は「関与しながらの観察」。

それは「こうしよう」と思いやってるが、それがうまく行っているか判断できないため、患者に関与しながら、患者と自分との間に生じてくる様々な事象について、どこかでじっと眺めている精神が必要という意見。

最初はこれを同時にすることは難しいので、毎回反省はできるから、「関与が済んでから観察して、そして観察してから関与する」。すると段々できるようになってくる。

 


・関与し、観察し、関与し、観察することを交互にやって「これでいいかな?だめかな?」と考えながらやってると、だんだん二つが溶け合って、関与しながら同時に観察出来るようになります。

 


・「関与しながらの観察」と、患者と一緒に何かやっていくことは、めちゃめちゃ楽しい

 

 

 

・マニュアルに沿った医療は楽しくない

 


・ストーリーが作れない診断は、常に後回しにしなくちゃいけない。

(幻聴や幻視が出るなら統合失調症によくある症状だ、オランザピンを処方します、みたいなのはダメ。ストーリーがない)

 


・バラバラな情報を繋いで、なんとか理解しようとする試みが「物語」。

・空想の能力がないと治療はできないし、診断も全然できない。

・解釈し描いた物語は、新事実によって常に作り変えられてゆく柔軟性が必要。

 


・個人の信念体系は、物語と呼べる。その人はどんな物語を自らの中に編んでいるのだろうか?欠落の物語か、もう取り戻せない物語か? それとも希望の物語か?

 


・「元通りに治るとは、また悪くなるような状態に戻るわけだから、それじゃしょうがないよな」

そうではなくてもう再発しないような、もっと健康にいいような生活を工夫して、再建していかなきゃないけない。

 


・数値目標はおかしい。これを達成しても生き甲斐はなく、虚しい。

 

 

 

 

 

 

 


・悩みを悩みだとわかってるうちは健康。しかし「悩むのはしんどいからもう悩まない」となった時に、一見悩みがなさそうに見えるけれども今度は症状となって出てくる。だから精神療法に来る人は、何か症状があって困ってやってくる。

そしてその状態は、必ず心身相関の崩れで起きてきてます。

 


・そこで心身相関を回復させるために、「心身相関が壊れてますよ。それはなぜでしょう?」というと、ここに本人が目を背けている悩みがある。それに気づかせることです。そして困ってる人を悩む人に変えることが精神療法です。(困ってる人を困らない人に変えることではない)

 


・困ってる人を悩む人にするには、「目を開かせる」。問題点を把握する。

そしてその後は、本人が生まれ持っている資質をできるだけ伸びていったという形にしたい。生来の資質が歪められている、無視されている、邪魔されてる所を解放する。

 


・心身一体、自己実現、それらを邪魔する文化という対置。

 

 

 

・心、身体、命を不自由にしている部分を見つけて、少しでも自由な部分を増えるようにするために「訊く」(訊ねる)。自分の理解を深めて、深めた理解を何度も相手に返して、相手の自己理解が深まってゆく。そんな活動はよい

 


ある物語を完成させるために、どんな物語であれば現状と一致するかを見立てようとすることが、的確な訊ねることを生み出す。「もう少し辻褄を合わせるたま目にはわたしは何が訊きたいか?何を知りたいか?」という意識

 


ただ相手側が「何か訳わからないことを根掘り葉掘り聞かれる」「言いたいことをちゃんと言えなかった」となったらいい活動ではない。

 


・その人が今まで工夫してきたものを、できるだけ生かす。その人が自由を求める気持ちが生み出した工夫を、やめて、と言ってもそれだけその世界では貧しくなってしまうから

 


・理論という知的集合体には、他を排除する傾向と、これに従えという暴君的な性質もある。

(理論を持たないものは、全てを受け入れるかもしれない。多くの弊害と共に。

 

 

 

・良い物語に基づいて、納得して、次の行動を選んでゆきたいのが人間である。

(みな幸せになろうとする、しかしそのやり方が間違ってると本人が参ってしまう)

 


・理論をあるひとつの物語と見なすことで、理論の併存性と柔軟性を高められる